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本心の心は既に救われている

救う側に立った時に、救われるのです。

 

救って欲しい、救われたいと幾ら願っても、救って欲しいという立場にしがみついている限りは、真実の救われは無いのです。救って欲しいという心は、業想念の心・求める心・不足の心です。みんなを救いたいと思う心は、本心の心・与える心・感謝の心です。業想念の心は、永遠に救われることは無いのです。七難八苦が常に影のようにつきまとうのです。

 

 


本心の心は、既に救われているのです。

 

神さまの全徳の無限の無限の輝きで一杯なのです。

 

真実の救われを得る為には、業想念の心にしがみつくのを止めて、本心の心の立場に戻ればいいのです。

 

 

業想念の心のままで、神さまを利用して御利益を得ようとする、御利益信仰、乞食信仰では、真実の救われを得ることは、永遠に不可能なのです。

 

業想念の心と本心の心の、どちらを自分の心として掴むかが、真実の救われの分岐点です。

 


過去を掴み、部分に執着する業想念の心では、神さまが与え続けて下さっている『新たな全徳の無限の無限の輝き』を感受することができないのです。

過去を放せば、新しいものを受け取ることができるのです。

 

これだけが自分のものなのだと、部分を掴むのを止めれば、全体を自分のものとして受け取ることができるのです。

 

本心の心をしっかりと掴んで、常に新たに、全体を自分のものとして受け入れてゆけば、真実の救われは成就するのです。

 

 

神さまの中から、一瞬一瞬新たに、新生している本心の心は、他を救う働きをすることによって、現実に大きく輝き出てくるのです。

他の本心を拝みだし、真理を伝え、愛他行を実践することによって、本心の心は現実に大きく成長するのです。

 


本心の自覚を深めてゆく秘訣は、他を救う行を実践することにあるのです。本心の自覚が深まってから、他を救う働きをしようと思っていたら、永遠にそのチャンスは訪れて来ないのです。

 

ちょうど赤ん坊が立てるようになってから、歩けるようになってから、走れるようになってから、身体を動かす練習をするのと同じです

 

じっと動かずに待っていたとするならば、きっと一生涯寝た切りの状態になるはずです。

 

赤ん坊は立てなくても、歩けなくても、一生懸命に身体を動かす練習をしているからこそ、立てるようにもなり、歩けるようにもなるのです。

 

本心の自覚を深める為には、現実に本心を大きく輝かせる為には、種の蒔かれた状態・赤ん坊の状態の本心の自分が、全力を出し尽くして、本心の自分を生きようと努力し続けることが必要不可欠なのです。

 


本心の自分は、既に悟っている自分・祈っている自分・救われている自分です。

 

本心の自分の既に救われている立場から、他を救う為に動き出せば、他を救う働きに比例して、本心の自分の既に救われているという実感が、大きく湧き上がって来るのです。

 

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