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大きな安心の中で不安になる

円覚寺の横田南嶺管長の法話(you tube)を聴いていて、なるほど!!と思った言葉、、、、

それは「大きな安心の中で、不安になる」という言葉でした。

 

 

「大きな安心の中で、不安になる」という言葉は横田管長もお人から教えていただいたとのことで、すぐに帳面に書留めた、と仰っておられます。

 

この言葉の管長の解説をご紹介すると、、、

 

 

横田管長のお言葉引用ここから~

 

 

「・・・たとえば、メガネをなくして、探しているとします。

どこにあるか、分からなくて不安になって探すのですが、絶対にこの家の中にあることが分かっているので、家の中にあるのだという安心感の中で、探しているという状態だと説明してくれました。

良いことを言われるなと思いました。

 

これは、鈴木大拙先生の、個と超個の世界でもあります。

不安になって探し回っているのは、「個」です。 この家の中には絶対にあるという、大きな安心というのが「超個」です。

その「超個」を自覚して、大きな安心の中で、不安になって探しているのが「超個の個」であると、私は解釈しました。

 

同じ捜し物をしていても違うのです。

ただどこにあるのか不安になって探すのと、この中にはあると安心して探しているのとは違うのです。

不安は無くなりません。

しかし、大いなるものに抱かれてある、「超個」に目覚めて、不安になっているのは、ただ不安になっているのとは違うのであります。」

 

~引用ここまで

 

 

先日ブログで「絶対の信」という言葉を使いましたが、ここで言われている「大きな安心」とは絶対の信の比喩だなぁ~と感じました。

私たちは肉体ある存在なのですから、外側からの刺激にいちいち反応してしまうこともあるでしょう。

だけど、「大きな安心の中」に(自覚しようがしまいが)居る存在であることを思い出せばよい。

 

何が起ころうと実は神さま(人智を越えた大いなる叡智)の御はからいであるということに、どれほどの信頼をもっているか??ということで

 

有事の際の心の振り子のふり幅も大いに違ってくるかな??と思います。

 

今回のコロナ騒動もいつか「懐かしい話」になることでしょう。

かつての「スペイン風邪」がきっとそうだったように。

 

最後に横田管長の言葉をまた引用し、締めくくりましょう。

 

引用ここから~

 

 

「コロナなんて、だいじょうぶだなんだ、風邪と同じだ、どうせ、人間は死ぬのだ、コロナでも風邪でも事故でも死ぬのだから一緒だといっているのも悪くはないと思います。

それも真理でしょう。

コロナもやがて収まる、絶対にだいじょうぶと安心していながら、敢えてだいじょうぶかなとお互いに用心して、心配しながら生きるのです。

お互いに弱い者同士、いたわりあい、励ましあって生きるのです。 これは、大悲なのです。 大きな安心の中で不安になる、深い言葉だと思います。」

 

 

~引用ここまで

 

新たなる無限の無限の平和が無限に無限にいっぱいありがとうございます

 

 

 

 

 

 

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