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死は怖くない

先日、「知の巨人」といわれる立花隆さんが亡くなられましたね。

私は立花さんの本が好きでたくさん読みました。

その著作のカテゴリーは幅広いのですが、臨死体験など「死」を取り扱ったものも多く、とても興味深いものばかりでした。

 

 

 

立花さんが『死はこわくない』という本も書かれているのですが、南鎌倉の円覚寺の横田南嶺管長が先日の法話の中で、この本について触れられていて「おっ!!!」と思いました。

 

 

管長の言葉を引用しますね。

 

 

引用ここから~・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

2015年に出版された『死は怖くない』という本は、よく学ばせていただきました。

立花さんが、臨死体験などの事例もたくさん調べられてきて、最後にたどりついた結論が、私などが禅の修行で体験してきたことと極めてよく似ていることに驚いたのでした。

 

 

この本の中で、立花さんと対談している、NHKの科学番組のディレクターの岡田朋敏さんという方が、 「臨死体験者の話に耳を傾けると、最後に自分というものが世界と一体化する、 そういう表現をする人が実に多いですね。 実は、先ほど話に出た明晰夢の研究をしているラバージも、夢の最後に見る「自分の死」のイメージは、いつもそういう体験なのだそうです。

彼の言い回しで言うと、 「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンと溶けて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」と。

 

 

科学的にあれはどういうことなのだろうと興味を覚えました。」 と語っているのに対して、立花さんが 「五木寛之さんが『大河の一滴』で親鸞の思想を、「すべての人は大河の一滴として大きな海に還り、ふたたび蒸発して空に向かうという大きな生命の物語を信じることにほかならない」と説明していますね。

 

 

 

道元も似たようなことを言っている。まさにラバージの夢と共通したイメージです。 西洋人にとっては目新しい語り口かもしれないけれど、東洋にはそういった世界観は昔からあった。 そういう意味で、意識の科学は東洋的な世界観に近づいていると言えると思います。

深いように見えて、実は深くないけれど、本当は深い、みたいな話です。」 と答えています。

 

 

「自分というものが世界と一体化する」 というところは、禅の修行で体験するのとよく似ています。

自分というものが消えて、世界とひとつになっているのであります。

死というものが、この自分というものが消えて世界と一体化することだとすれば、まさしく禅の修行は、死の稽古をしているものと言えましょう。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・~引用ここまで(太文字は中川)

 

 

これ!!

 

すごくないですか???

 

もちろん、これは横田管長のお考えであり、真実かどうかなど誰にもわからない。

 

だけど、死とは、「これまでの自分が消える体験」であることは間違いない。

「消える」ことが怖くて、人は死をむやみに恐れる。

なにもかもなくなってしまうと思うから。

 

 

ところが!!!

なくなってしまうどころか、「世界と一体となる大いなる体験」となればどうですか?

 

 

私はすべて合点がいくのです。

私のおばあちゃんは顔にまでガンができてとても苦しんでいました。

昨年他界した母も骨折して以来の両足の痛みに苦しんでいて、いつお見舞いにいっても苦痛に顔をゆがめていた。

でも、祖母も母も、とてもとても穏やかな優しい美しい死に顔だったのです。

 

 

死ぬって、お話の中のラバージのいうような・・・・「自分はずうっと落ちていく雪のようなもので、最後に海にポチャンと溶けて自分がなくなってしまう。そして最後に自分は海だったと思い出す」・・・・そんな体験からも知れないな、と思います。

全てが一体だと思い出す体験。

まさに印可書の言葉通りですね。

彼我一体、不離一体、神我一体の実現なのでしょう。

私たちはこの世で、肉体を持ちながら、彼我一体、不離一体、神我一体に向かうお勉強、練習をしているんだな~とあらためて思いました。

 

 

新たなる無限の無限の輝きが無限に無限にいっぱい

ありがとうございます

 

 

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