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「神さまの愛」に対する「信じ方」

「神さまの愛」に対する「信じ方」にも、色々な「信じ方」の状態があるのです。

 

  1、 絶対に信じない(何が何でも、神さまの愛を否定し、拒絶するぞ)。

  2、 信じられない(神さまの愛を疑いたくなるような事象があって、信じられない)。

  3、 信じたくない(そんな目に見えないものに頼っても仕方がないから)。

  4、 わからない(信じる方が良いのか、信じない方が良いのか、決断がつかない)。

  5、 信じたい(神さまの愛が無いとすれば、未来に希望が持てないから)。

  6、 信じてる(移り変わる姿には疑問もあるが、神さまの愛は信じている)。

  7、 絶対に信じている(すべての事象に神さまの愛を感じ、深く確信している)。

 

 

 

信・不信の心の状態は、どこから生まれてくるのかと言うと、その人が過去にどんな言葉をどれだけ心に蓄積してきたかという、その総決算の中から生まれてきているのです。

 

 

神さまの愛を否定する類の言葉を、数多く心に蓄積してきた者には、不信の信念が自然に培われているのです。

逆に神さまの愛を肯定する類の言葉を、数多く心に蓄積してきた者は、自然と神さまの愛を信じられる心の状態になっているのです。

 

 

言葉がその人の信念を作り上げてきているのです。

 

 

 

真実に存在しているものは、神さまの「絶対の愛」と「愛の表現」です。

どんな言葉で否定しようとも、厳然と実在している「絶対の愛」は、決して消えて無くなることは無いのです。

また神さまの「愛の表現」も、信じる・信じないということとは無関係に、真実の表現として表現され続けているものです。

 

ただ神さまの愛に対して、「信」のある者には、神さまの「絶対の愛」と「愛の表現」が感じ取り易く、逆に「信」の無い者には、感じ取り難くなっているだけのことです。

 

 

 

神さまの愛に対する不動の堅信は神さまの愛を一途に思い続けることによってのみ、養成されるものです。

一切の現象は、「信」の心で眺めた時に、神さまの愛の現れと感じられるのです。

「不信」の心では、幾ら眺めても、神さまの愛は感じられないものです。

 

 

 

不動の堅信は、一切の現象に神さまの愛を感じ取り、また現象を超越して絶対の愛を把握するようになるのです。

現象の移り変わる姿に一喜一憂しているようでは、本当の信・不動の堅信はまだ無いのです。

だから神さまの愛の助けを、十分に感受できないものです。

「信」無き者は、折角の神さまの愛の助けをも、感じ取れないでいるのです。

 

 

 

「信」深き者こそ、幸せです。

 神さまの大きな大きな愛の助けを、いつもいつも大奇跡として、目の当たりに感じ取ることができるからです。

 

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