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おもしろい~!祈りとはなんぞやby玄ちゃん

んんんん~!
おもしろい・・・!
僧侶であり芥川賞作家でもある、玄侑宗久さんによる「祈り」についての記事。(『中央公論』1月号)
なんか、わたしがポワワワン~と感じていたことを、ピシッと言葉で言ってくださった感じで、とっても快い。

 

 

わたしは個人的にになんらかの宗教を信心しているわけではないけど、ものすご~く(!)「祈っている人」です!!
これ、言い換えると・・・
「祈り」は宗教と関係性の深い一面はあるものの、宗教とは別個にも存在している、ということになるのでは~?
これは、決して宗教や信者さんへの否定ではありませんょ。わたしが無宗教という事実を言ってるだけ。
しかも、しかもですよ、こんなに無宗教なのに、いやぁ、もー、コレ「神様」やろ?・・・・ということをしばしばハッキリ感じると同時に、「祈り」の重要性もガッツリ実感しているという・・・分裂気味なんですワ~?わたし。

 

そんなわたしに玄侑さんの「祈り」の定義は、ストンと胸に落ちた。
「祈りとは『私』をなくすこと」
しかも、玄侑さんは「日本人にとっての祈りとは」と限定されて言われているところも興味深い。
なぜなら、「祈りと願いごとは違う」から、とのこと。
つまり、神社での家内安全や合格祈願は「願い」であり「祈り」ではないってこと。
英語でいえば、どちらも「pray for」。
そのあとに「his health」と「目的語」が続けば、「彼の健康を祈った」・・・となりますよね。
しかし、玄侑さんは「日本人にとっての祈りとは、目的格がなくなり、無心になることだと思うのです。」
さらに
「たとえば、彼の病気がなおりますように、というのは祈りとは言えません。
彼の病気が治ったほうがいいにしても、治るか治らないかは、「私」の勝手な望みで決まるものではなく、御縁によって決まること。「私」が口を挟むことではありません。
「私」がこの件に関して祈ることができるとすれば、それはあの病気が治らないとしても、心安らかでありますように、ということだけなのです。」

 

 

そう!そうそう!そこなんですよ!玄侑さん~!!!

 

 

「人間は誰しも我が身が一番かわいい。でも我が身が可愛いままで何かを願ったところで、それは欲望のエゴにすぎません。
だからこそ、我が身、「私」が頭の中からなくなる状態を作ることが、多くの宗教の目標になるのです。」

 

 

仏教も神道も、また、坐禅にも瞑想状態があるのは「私」を無くす手段であり、念仏を「何度も唱えるうちに「私」が溶けていく。」と玄侑さん。それが「自己を調えた状態」であると。
つ・ま・り・・・・・祈っていると・・・「私」=「エゴ」が溶ける。。。いうことですよね?玄ちゃん?(親しみ湧いて、だんだん慣れ慣れしくなってきた笑)
ということで、これからも祈り続けるとなれば、わたしの祈り言葉は「南無阿弥陀仏」よりは、宗教色のない「ありがとうございます」が、なにはともあれ、もうバッチリしっくりきます。はい、もう真言・マントラですわね。

 

 

玄ちゃんの祈りの考察でよぉくわかりました。

最後にお釈迦様のお言葉を。
「お釈迦様は「自灯明・法灯明」という言葉を遺言としました。すなわち、自らを灯明として、自らを調えよ。そして調った自己が見つめる世界=法だけを灯明とせよ、と。それ以外を拠り所としてはいけないのです。」

 

ありがとうございます。

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