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見える人見えない人・・・「見えない缶」

昨日のラジオ放送【中川千都子のありがとうのじかん】である作文を読ませていただきました。

この作文の存在を教えてくださったのは、何日か前のブログ記事に書かせていただいた㈱新宮運送の木南一志社長です。

この作文から、あなたは何をお感じになられるでしょうか。

 

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【見えない缶】

 

一日が終わる少し前、仕事を終えて疲れて電車に乗り込む。

するとそこには、何とも不愉快なものが乗っていた。

がらがらの電車内でガラガラと音を立てた転がる空き缶だ。

仕事で疲れている体には、本当に勘に触る音だ。

一体誰が置き去りにしたのか?

持って行ってホームの屑かごへ入れるくらいの事がどうして出来なかったのか?

腹が立った。

 

ケータイをいじるふり、音楽を聞くふり、新聞を読むふり。

世の中の無関心に転がされている空き缶。

向こうに転がっていった。

 

よかった、私の方にはもう来ない。

その瞬間、電車が揺れ、缶は私に一直線。

来るな!と願うがそれはコツンと私のつま先に。

ラッキーにもすぐに、向かいの席に遠ざかって行ったが、このままでは戻ってくる。

目の前の初老の男性が缶を手に取り、足元に立てた。

よかった、あの音は、もう聞かなくてすむ。

 

そう思った瞬間に、電車が揺れ、また缶は倒れ転がり出した。

そして立っていた女性のつま先に。

女性は、缶を手に取った。

そこでドアが開いた。

私は缶の行方を追いながらドアへと向かった。

 

 

彼女がホームに一歩踏み出したその瞬間、

私は頭の中が真っ白になった。

彼女は白い杖をコツコツと地面に当てながら、

屑かごに辿り着き、

手探りでその缶を捨てて行った。

 

その缶は目が見えない彼女に見えて、

目が見える私たちには見えていなかった。

自分が恥ずかしくなった。

 

なぜ私は無視したのだろう?

人の視線を気にしていたのか?

それを拾うことで視線を浴びてしまうことへの恐怖か?

彼女が拾えたのは、人の視線が気にならないからか?

私も空き缶を捨てたものと変わらないのではないか?

 

 

善意を行うことにも他人の視線を意識してしまう自分、

世間との関わりを拒んでいる自分、

どうせ誰かがという無関心な自分、

すべて自分が作り出している自分だった。

 

人の視線を意識する前に、

自分の意識を変えれば、

世間は変わるかもしれない。

 

まず、「自分から」そのことを彼女から教えられた。

 

AC ジャパン創立40周年記念作文コンクール優秀賞

/東京都 赤木 洋)

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・・・この作文を読んで、、、、、見えるもの、見えないもの・・・って結局なんだろう?とわたしは思いました。

見えないものが見えるようになってくること、それもまた人としての「成長」なのかもしれないですね。

 

ありがとうございます

 

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