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皆さまの質問から~「体は辛いけど心は辛いのではない、の意味がわかりません」

ℚ、千都子先生にも何かお辛いことがあったということを聴かせていただきました。

私もさまざまな辛い事を経験してきたのでお察しします。

ご講演の中で「体は辛いのですが、心は辛いわけではなく、味わっている自分がいる」という意味のことを言われていました。

その意味がわかりません。心身一如なので、体が辛ければ心も辛くて当然では?

失礼ですが、我慢しているだけでは?

私にはまったくわからない世界なので失礼をかえりみず質問させてください。

 

 

*メール、ラインにて質問いただいても、恐縮ながら個人的にお返事は一切いたしません。ブログでお答えいたしますので、ご理解くださいませ。

 

 

まず、、、、人は自分の経験を基準にモノを考えようとするので、人の体験を自分に当てはめるのは無理があると思います。

しかし、自分のより望ましい(を求めているのなら)状態のための参考に、だれかの経験を知るということは無駄ではない、とも思い、自分の話をします。

 

 

中学のときだったか、耐寒訓練といって、冬の一定期間、朝マラソンがありました。

朝早いのも眠くて嫌だったし、寒いのも嫌いだし、走るのもしんどいし、の三重苦。

そんな私でも先生の「あとトラック一周!」という最後の合図が聞こえると俄然張り切って元気に走り終えたものです。

でも、もし「あと一周!」の合図もなく、いったいいつまで走るやら終わりがわからなければ、ただただ疲弊していくばかりだっただろうと思います。

 

 

 

「終わり」がやってくることを知っていたならば、すべては「プロセス」に過ぎない。

ってことは、すべては結果ではなく、プロセスなのだから、今のその状態を楽しんだら良いのです。

今は体に辛いことであっても、です。

中学のときだって、毎朝のマラソンを結局そうやって走り終えたんですもの。

それを楽しむ機会を与えられている。

「楽しむ」というと語弊があるため「味わう」と講演などでは言っていますが、、、ほんまは「楽しんだらよい」と思っています。

 

 

では、その明確なる「終わり」ってなんなんでしょうね??

 

 

ここからは五井昌久先生『神と人間』の中から抜粋してお伝えします。

以下抜粋

 

「はたして人間は肉体の滅亡をもって、最期の終止符になるであろうか。私は即座に、否と答える。」

 

 

「人間とは肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられた力を縦横に、自由に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を画きだそうとしている者である。」

 

 

「神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。」

 

 

「このような、神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界のいかなる変動の中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。」

 

抜粋以上。

 

当たり前ですが、私の言葉より、はるかに分かりやすく、まっすぐにお受け取りいただけるかと思います。

 

つまり、私たち人間は、この小さな身体が生命でありすべてなのではなく、実は、神さまの生命をこの世に示す活動体であるということ。

それを真に知ることができれば、この世でおきるあれこれ現象界のことには振り回されることはなくなる、といっても過言ではないのです。

 

ありがとうございます

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