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皆さまの質問から~「自分のことを手放す」の意味がわかりません

Q、よく千都子さんが「自分のことを手放して祈る」「自分を脇において淡淡と祈る」と言われますが実感がわきません。

自分ができてるかどうかもわかりません。

それは、自分の体調が悪いときも、不安とか嫌なことがあったときでも、そういったことを受け入れお祈りするということですか?

それは自分を大切にしていないことになりませんか?

 

 

まず、よくお問合せいただくので、誤解なきよう一言お断りを。

Chiz-宙及び中川千都子は、いずれの宗教組織、教義、教団、教祖とも全く関係ありません。

私がここで表現する「神さま」は教祖のどなたかや特定の神様の一柱を指すものではなく、「宇宙の摂理」を意味しています。

また「お祈り」も、いずれかの宗教の真言ではありません。基本は「ありがとうございます」の大和言葉の言霊を指します。

どうぞご理解のうえよろしくお願いいたします。

 

 

 

さて、ご質問をいただいた、「自分を手放す」ということを言い換えると「移り変わる姿に執着しない」ということです。

 

 

体調が悪くても、不安なことがあっても、嫌なことがおきても・・・それがたとえ今は耐え難い苦しみであったとしても「一過性」のものに過ぎない。

例えれば、電車から見える車窓の風景のようなものなのです。

 

 

車窓の風景だったら

「あ~田んぼが見えてるな~」「工場地帯だな~」「富士山が見えた」「飛行機が飛んでる」・・・・ただただ次々過ぎていくだけでしょう。

それと同じです。

 

「あー自分は腹が立ってるなー」「悔しいと思ってる」「悲しいよ」・・・これらも次々新たに新たに過ぎてゆくだけなのに、いついつまでも「ありありと今ここにある」ように感じているのは、なんどもしつこく感じなおしているから。

 

 

それって、車窓の風景ではなく、壁に掲げている風景写真になってて、何度も手にとっているようなもの。

しかも、その思いがちょっと薄れかけたころにまた手にとって見返す、ということを知らず知らずにしています。

念入りに反復復習をしているようなもの。

 

なぜなら!!!

 

心にも慣性の法則があり、一度味わったことには慣れ親しんでおり(心地よくないものであったとしても)、無意識に変わりたくない力が働くからです。(これが、思いグセです。思いグセがなかなか改まらないのはそういう理由です)

 

 

 

では~どうしたらいいのか??

 

 

だ・か・ら!

「淡淡とお祈りの言葉の実践」に尽きるのです。

つまり真のプラスの言葉を駆使することです。

 

 

淡淡と、、、、です。

棒読みでけっこう。

 

 

 

あ、それから「お祈りがちゃんとできてるかどうか」などは、だれも自分では実感できません。

 

 

もっというと

「お祈りしてたらいっぺんに心境が変わった」「突如、幸せで幸せでしかたない自分になった!」「光が見えた」?「声が聞こえて導かれた」??等々となるのは、、、、、はっきり言って「気のせい」であり、さらにいうとお祈りに頼って助けてもらおうという依存心のある場合に起こりやすいです~~

 

 

もっと静かなるものなのですよ。

だから「これでいいのかな?」と感じられて当然です。

 

ただ「自分を大切にしていない」とはどういうことかというと、

自分に「お祈りができていない」とレッテルを貼ること。

 

すべては真の神さまなのに。。。

それって、自ら神さまにサヨナラしてることと同意義になります。

 

 

 

本当の自分とは、肉体や感情を指すのではなく、「本心の自分」です。

そして祈るか?祈らないか?

それは自由意志に委ねられています。

 

 

神さまはどんなときも自由意志を尊重されるのです。

 

 

新たなる無限の無限の神徳が無限に無限にいっぱい

ありがとうございます

 

 

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