血の気も引く・・・失敗をした話
かつて、会社に勤めていたとき、私は仕事上で大きな金額の損害が出るようなミスをしてしまったことがあります。
そのことを上司に報告せねばならない朝は、、、、気分どんよりというような程度ではなく、ほぼ死人のように生気を失ってしまいました。
しかも、私がこんな間違いをしてしまったのは、あのとき別の資料を渡されたのが原因だ等々、自分の手抜かりを棚にあげて責任転嫁、恨みつらみ憎しみまで感じるほど、心も荒みました。
また、だぁれもこのミスに気付いてないのだから、知らんふりしておこうか、という無責任な考えも起こります。
何も自分が着服したわけじゃないんだし、という開き直りまで。
どっちにしても心は晴れない。
朝起きて、「会社に行く」という当たり前の選択肢のはずが、にわかに体の具合も悪くなり「会社に行かない」という選択肢まで湧いてきたのです。
どうイメージしても散々な未来しか想像できなくなるとき、人は力を失います。
最もひどい場合は、生きる選択肢すら失くしてしまうことになりかねないのも容易に想像できます。
そのときの私はどうしたか。
手帳の今日の欄に「〇〇部長に素直に簡潔に報告し、自信をもって善処策を提案できました。ありがとうございます」とありたい自分を完了形で書き記しました。
とてもそんな光景は想像できなかったのだけど、とにかく言葉で描いたのです。
余白にもびっしり「ありがとうございます」を小さい字で書けるだけ書きました。
「ありがとうございます」を書き綴ることは次第に心に調和をもたらします。
勇気をだして、私は上司に正直に話し、解決策も伝えました。
そして、「今の役職を降格させてください」という意思も伝えました。
自分にとっては、血の気が引くような大ミスだったのですが、穏やかな和やかな顛末となり、私は降格になることもありませんでした。
私はここで「ありがとう」を言ってたら、「思いどおりになるよ!」ということが言いたいのではありません。
お伝えしたいのは・・・・何をすべきか明確になる、ということ。
自分にとっての課題に直面したとき、逃げたり、隠したり、責任を放棄したり、誰かを責めたりするのではなく
一番心地よい方法、晴れ晴れとした心になることこそが、いつも今「すべきこと」。
誰しも、ズルをしたり、隠し事をしたり、ちょっとごまかしたり、、、なんて身の上に起こりえます。
そのときには、自分を責めたり自己嫌悪になったりするのではなく、そんな自分がいる(私の中にはいろんな自分がいるでしょう?)ことを認め、伸びしろだと思って「ありたい自分像」を描いていただけたらいいかな、と思います。
私たち日本人には「美を基準とする」感性がありました。
これについては、またの機会にブログで書きますね。
新たなる無限の無限の発展が無限に無限にいっぱい
ありがとうございます
2021.12.17