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ときめき地図「ヴェニスの傘」

  傘を失くしてしまった。

失くしてからしばらくは、会う人ごとに傘を失くした話をした。

いつどこで、こうやって、こう拡げて干していたのに、もう戻ったときには私の傘だけ失くなっていたの。

ひとしきり話は聞いてもらえるものの、どの人もみな「なんだ、傘か」という顔をした。

 

  以前ヴェニスを訪れた。

さしたる目的もなく、たいしたお金も持たないまま、ぶらぶらと気ままな旅である。

足の向くまま、出合う店出合う店をちょっとのぞいては後にした。

午後の陽射しは、いつか夕方の翳りを見せ始めていた。

もうそろそろ引き返さなくては。

賑わう通りから少し外れたところに、その店はあった。

踵を返しかけたものの、私は吸い込まれるように、そのブティックの薄暗く狭い間口へと向かっていった。

  店内もぼんやりと暗く、木の床が湿気ったような懐かしい匂いを放っている。

広くはない店の造りは、古めかしいものの清潔で、洋服やバッグなどがきちんとゆったりと並べられていた。

女店員が笑顔で会釈する。

私は慌てて「見ているだけです」と答えながら、さらに奥へ。

 

  店の真ん中あたりに、大きな黒い壺があった。

大人の両腕でもまわしきれない大きさのその壺に近づくと、それには何十本もの傘が立ててあった。

傘の色は赤と黒と紺の三色のみである。ふと心惹かれて、紺の一本を手に取った。

  みれば持ち手から芯棒までが、一本の木で作られている。店員に勧められるままに、傘を広げた。

頭の上にさぁっと明るい紺が拡がった。

傘の生地の縁には、鈍い金色で店の頭文字が並んでいる。

頃合いの太さの持ち手は艶やかに美しく、握ってみればしっくりと手に馴染んで、そこから下がる長い革紐にいたるまで、私はすっかり気に入ってしまった。

 

  帰りの飛行機では、スーツケースには入らないその傘を抱いて持たねばならなかった。

まるで子どものように雨の日が待ち遠しかった。

そうしてようやく待望の雨が降った日には、ヴェニスの空を一人分、と独りごちて、傘を見上げながら、どこまでも雨の中を歩いた。

 

  あの傘を失くしてから、雨の日はただの雨の日になった。

また見つかるかも知れぬと、しばらくはビニールの傘を、やがて諦めて何度か違う傘を求めた。

どの傘も美しく、雨を凌いではくれるが、同じようには愛せない。

  別れは不意にやってくる。人も物も。

だからこそ悔いのないよう愛し貫きたいと決意する時にはいつも、それは目の前から失われている。

(「現代川柳」2013年7月号掲載)

*「ときめき地図」は、川柳誌「現代川柳」に連載されている中川千都子のエッセーのページです。

 

 

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