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【ときめき地図】お風呂

 

   小学校の低学年まで住んでいた家にはお風呂がなかった。

夕方になると母と弟とで近所の銭湯に通った。

洗面器にタオルとせっけんとシャンプーとを入れて、住んでいるアパートから歩いて十分ほどの距離だったろうか。

母は楽な木綿のワンピースに裸足につっかけ姿で、両の手にそれぞれ私と弟の手を握り、車の通る道では前後に長くなって、あれこれ喋りながら賑やかに歩いた。

 

   日曜日は父を加えて家族4人でお風呂に行く。

風呂屋への道を、私は父と手をつなぎ歌いながら歩くのが好きだった。

とりわけお気に入りは坂本九ちゃんの『上を向いて歩こう』で、父と大きな声で歌いながら歩いた。

父の手にぶら下がりながら、歌の歌詞どおりに上を向いてふざけながら歩く。

口笛の上手な弟は、私の歌う歌に合わせて口笛を吹きながら、すぐ後ろを母とついてきた。

 

   風呂屋にたどり着くと、私はそのときの気分で女湯にしたり、父と一緒に男湯に入ったりした。

男湯には、たまに青や赤で背中やらに絵の描いてある人もやって来る。

せっけんでも消えないその図柄が不思議で、絵のある人が来ると好んでそばに寄っていった。

そんな私を父は何度も引き戻し「早く頭を洗いなさい」と優しく言った。

 

 ほどなく引越した家にはきれいなお風呂があった。

寒い日も雨の日もお風呂屋まで行かずともすぐにお風呂に入れる。

もう『上を向いて歩こう』を歌うことはなくなったが、新しい家でも私は父とお風呂に入った。

知らない外国の話や昔の武将の話、星座にまつわる物語や古墳の不思議な話など、父はいろんなことを知っていて、ときにはこちらがのぼせてしまうほど、お風呂でたくさんのお話を聞かせてくれた。

 

 小学四年の日曜日の夕方のことだった。

二階の自分の部屋で寝転んでマンガを読んでいると、父が風呂場から私を呼んだ。

はっと半身を起しかけたが、マンガを読み続けたい気持ちに勝てず、そのまま返事もせずにやり過ごしていると、先ほどよりも大きな声でまた父が私の名を呼ぶ。

渋々起き上がろうとしたそのとき、キッチンの母が父に「千都子はもうお父さんとお風呂に入りたくないのよ」と言っているのが聞こえた。

どきりとした。

   私はマンガを伏せて、座り直して耳を澄ませた。

父の返答は聞こえなかった。

そのあとに静かに風呂場の戸を締める音がした。

柔らかな痛みが胸に走った。

   その日以来、父が風呂場から私を呼ぶことはなくなった。

 

(「現代川柳」2015年5月号掲載)

*「ときめき地図」は、川柳誌「現代川柳」に連載されている中川千都子のエッセーのページです。

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