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【ときめき地図】ひゃくねん

 花火を見に行こう、とその人から誘いを受けたとき、私の中で花火が上がった。

黙っていると、長身を屈め「行ける?」と顔を覗き込まれてしどろもどろになった。

「え?あ?たぶん、なんとかなります」。

さして予定もなかったのに忙しいふりをして、にこりともせずに答えた。

そしてその日から花火までを指折り待った。

 

 ひときわ蒸す夕暮れだった。

そのうえ、どこから人が湧いてくるのか、花火大会の行われる河川敷まで、夥しい人の波は途切れることがない。

 

粘るような暑さと人いきれ。

くらくらしてしまう。

くらくらするのは、あるいは隣の人とこんなにも寄り添っているせいか。

人込みに押されるまま、寄り沿い合い、傍目には私たちはきっと恋人たちのようだろう。

相手の体温を感じながら、この人が私にとってどんどん特別になってゆくのを止められない。

 

 目指す河川敷にたどり着き、土手の柔らかい草の上に私たちは腰をおろした。

 どこかの窓やベランダから遠い空の花火を見たことはあったが、わざわざ見に来たのは初めてである。

しかしその光景は、思っていたほどロマンチックなものでもなく、見渡せば何組かの恋人たちと、あとは賑々しい若者たちのグループや、走り回る子どもたちを声高に追いかける家族連れが何組か。

 

 七月の明るい夕暮れにも、ようやく淡い闇が広がり始めた。

どさりと鞄を倒すと、彼はそれを枕に草の上に寝転がった。

私も促されるままに寝転がってみると、空はさらに大きく私の上に広がった。

 

 先ほどまで他愛ない話をしていた私たちだったが、どちらからともなく黙って、吸い込まれるように空だけを見ていた。

 ドン!と大きな音とともに一発目の花火が打ち上がった。

 あぁ、と嘆息のように声が洩れた。

開いた花火はみるみる空に散り、また新たな花火が打ち上がる。

あぁ。

 

 次々打ち上げられては消えてゆく花火を眺めていると、うろ覚えながらふと俵万智の歌の下の句が浮かんできた。

「・・・ひゃくねんたったらだあれもいない」

百年経ったら誰もいない。

例外なく。

ここにいるあの若者たちも、さっき子どもを叱っていたお母さんもその子どもでさえも、百年経ったらいなくなる。

そう、いま隣に居る人も。

もちろん私も。

 

 

花火はいよいよ華やかに空を彩る。

「ひゃくねんたったらだあれもいない」

私の中でそのフレーズはこだまし続ける。

 

*参考「地ビールの泡(バブル)優しき秋の夜 ひゃくねんたったらだぁれもいない(俵万智)」

*「現代川柳」2015年7月号掲載。「ときめき地図」は、川柳文芸誌「現代川柳」に連載中の中川千都子のエッセーのコーナーです。

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