【ときめき地図】センパイ
「センパイ、私、赤ちゃんができちゃったんです」
会議室に私を呼び出した今日子は、消え入りそうな声でそう言った。
「・・・どないしよう、センパイ」。
「どないしよ、やないやろ!しっかりしぃや。父親ははっきりしてるんやろね」
「・・・一応」
「はぁ?一応?!その男の子はアンタと結婚する気あるんか」
「え、わかりません」
「わからへんて、なに?」
「まだ知り合ったばっかりやし」
「・・・アンタはアホか!」
今日子は高卒採用で三年目の社員だった。
入社直後から私は彼女の教育係。彼女は漢字もろくに読めず、計算も苦手、一回り以上も年上の私のことを役職ではなく、何度正しても高校のクラブ活動のように「センパイ」と呼んだ。
私は今日子が嫌いだ。
仕事ができないからだけでなく、理由は山ほどある。
敬語が使えない、馴れ馴れしい。尻がやっと隠れる短いスカートや胸の谷間の見える洋服を着てくる。長く伸ばして黒く染めた爪。女子トイレでの喫煙。それに、私の家に泊まると家族に言い置いて、男の家に泊まったりする。迷惑はなはだしい。私にとっての非常識が服を着ると今日子になる。プリップリに若々しく、美しいのも腹が立つ。
仕事のことはもちろん、服装のこと、生活態度のことも私は容赦なく厳しい言葉で今日子を斬ってきた。ときに涙を浮かべ、ときに悔しそうに唇を噛んでこちらを見上げ、彼女はじっと耐えていたが、どんなに深刻にしていてもまた次の日には「センパイ、センパイ」と子犬のようにつきまとう。
今日子は、赤ん坊を堕胎しようとしていた。男には自分と結婚する意志はないだろうこと、そしてなによりも躾の厳しい父親の叱責を恐れていた。
「それでええんか?安易に結論だすことやないよ!命なんやで、アンタのお腹にあるのは!」
私の言葉に今日子は、子どものようにえーんえーんと泣き始めた。泣きながら「ごめん、センパイ、ごめんなさい」と途切れ途切れに繰返す。
ここは会議室だ。泣くな!今日子!声が外に洩れるではないか。それに悪いけど、私に謝られても知らん。
泣きやむ気配もないその肩を抱くと震えていた。予期せず愛しさがこみ上げた。
「泣いてもしゃあないやろ。これからどないするかやろ」
今日子は顔を上げて私を見た。涙で化粧のはげた顔は、頼りなくあどけなかった。
「センパイ・・・あたし、どないしたらええのですか?」
アホか・・・アンタは。ほんまに、もう。
私も途方に暮れていた。ただ、今ここではっきりしているのは、この後輩が私にも実は大切な人だったということだけだった。
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現代川柳2015年1月号掲載。
「ときめき地図」は文芸誌『現代川柳』連載中の中川千都子のエッセイのコーナーです。
2021.3.4