見える人見えない人・・・「見えない缶」
昨日のラジオ放送【中川千都子のありがとうのじかん】である作文を読ませていただきました。
この作文の存在を教えてくださったのは、何日か前のブログ記事に書かせていただいた㈱新宮運送の木南一志社長です。
この作文から、あなたは何をお感じになられるでしょうか。
**************************************
【見えない缶】
一日が終わる少し前、仕事を終えて疲れて電車に乗り込む。
するとそこには、何とも不愉快なものが乗っていた。
がらがらの電車内でガラガラと音を立てた転がる空き缶だ。
仕事で疲れている体には、本当に勘に触る音だ。
一体誰が置き去りにしたのか?
持って行ってホームの屑かごへ入れるくらいの事がどうして出来なかったのか?
腹が立った。
ケータイをいじるふり、音楽を聞くふり、新聞を読むふり。
世の中の無関心に転がされている空き缶。
向こうに転がっていった。
よかった、私の方にはもう来ない。
その瞬間、電車が揺れ、缶は私に一直線。
来るな!と願うがそれはコツンと私のつま先に。
ラッキーにもすぐに、向かいの席に遠ざかって行ったが、このままでは戻ってくる。
目の前の初老の男性が缶を手に取り、足元に立てた。
よかった、あの音は、もう聞かなくてすむ。
そう思った瞬間に、電車が揺れ、また缶は倒れ転がり出した。
そして立っていた女性のつま先に。
女性は、缶を手に取った。
そこでドアが開いた。
私は缶の行方を追いながらドアへと向かった。
彼女がホームに一歩踏み出したその瞬間、
私は頭の中が真っ白になった。
彼女は白い杖をコツコツと地面に当てながら、
屑かごに辿り着き、
手探りでその缶を捨てて行った。
その缶は目が見えない彼女に見えて、
目が見える私たちには見えていなかった。
自分が恥ずかしくなった。
なぜ私は無視したのだろう?
人の視線を気にしていたのか?
それを拾うことで視線を浴びてしまうことへの恐怖か?
彼女が拾えたのは、人の視線が気にならないからか?
私も空き缶を捨てたものと変わらないのではないか?
善意を行うことにも他人の視線を意識してしまう自分、
世間との関わりを拒んでいる自分、
どうせ誰かがという無関心な自分、
すべて自分が作り出している自分だった。
人の視線を意識する前に、
自分の意識を変えれば、
世間は変わるかもしれない。
まず、「自分から」そのことを彼女から教えられた。
(AC ジャパン創立40周年記念作文コンクール優秀賞
/東京都 赤木 洋)
*****************************
・・・この作文を読んで、、、、、見えるもの、見えないもの・・・って結局なんだろう?とわたしは思いました。
見えないものが見えるようになってくること、それもまた人としての「成長」なのかもしれないですね。
ありがとうございます
2016.1.15