【ときめき地図(エッセー)】豆菓子屋
その駅に降り立ったとき、初めて訪れた町にもかかわらず、ノブオはふっと懐かしい思いに胸がしんとなった。
仕事の資料を抱え、改札を抜けると駅前に商店街がある。
漬物屋や和菓子屋、総菜屋などが軒を並べており、小さな音量で歌謡曲がかかっていた。
昼日中で客はまばらだが、夕刻には多少は賑わうのだろうか。
経営コンサルタントという仕事柄、ノブオはそんなことを思いながら商店街を急ぎ足で歩く。
「おっ?」
一軒の豆菓子屋の店先で思わず足が止まった。
ノブオの母方の実家は豆菓子を製造する工場を営んでいた。
幼い頃のおやつといえば豆菓子で、それは大好きだったおばあちゃんの思い出と共にあった。
思うたびに温かい記憶である。
ずいぶん前に時代の流れでその工場も畳むことになり、その跡地も今では人手に渡った。
先を急いでいるというのに、ノブオは吸い込まれるようにその豆菓子屋の暖簾をくぐっていた。
「いらっしゃい!」
前掛け姿のおばさんが笑顔で迎えてくれた。
店には色とりどりのいろんな豆が平たいガラス蓋のついたケースに入っている。
「どれにしよかなぁ」
「みんな美味しいよー」
「ほな、これちょうだい」
茶色い皮のイカリ豆を指すと、おばさんはそのケースの蓋を開け、銀色のスコップのようなもので豆を掬った。
そしてビニール袋にザラザラ入れると吊り秤で目方を量り、手際よく口を縛って、茶紙で丁寧に包んでノブオに手渡した。
「ありがとうございます」
代金を払うとノブオもありがとう、と言って店を出た。
豆を鞄の底にしまうと豊かな買い物をしたようで嬉しかった。
その後に向かった初めての訪問先では契約がとれ、また二週間後にその町を訪れることになった。
ノブオから電話をもらったのはまさにその二週間後のその日である。
声色に焦りとも怖れとも違う興奮が滲んでいた。
「千都子さん!聞いてくれ、なくなってるのや!店が」
今日再び商店街を訪れてみると、あの豆菓子屋がなくなっているというのだ。
正確に言えば、あの店のあった場所が全く違う婦人用品店になっていた。
洋品店は最近できたのではなく、見るからに長らく商売をしている様子である。
腑に落ちず店主に豆菓子屋のことを尋ねると、「知らない」と言われたそうだ。
全ての風景は変わらないのに、あの店だけが忽然と消えている。
「どうなってるのや、これは・・・」
私たちの日常は不思議で満ちている。科学で証明できることなど五%にも満たないそうだ。
だから、わからないことは全部神さまの仕業だと思うことにしている。
「現代川柳」(現代川柳研究所刊)2016年7月号掲載
「ときめき地図」は、文芸誌「現代川柳」に連載されている中川千都子のエッセー欄です。
2017.5.27